快楽の漸進的横滑り 1974年の映画

殺人事件から始まる話。


この作品が過去にヨーロッパで上映中止になったということは観てわかりました。
キリスト教に対して否定的という受け止め方をされるということでしょうか。

最初の殺人事件も聖アガタの話を背景にしているようです。
事件の現場検証も不思議な感じで進みます。

異端審問という言葉も出てきます。
キリスト教、もしくは宗教について書いてみようかとも思いましたが、ブログ主の知力では難しいと判断して断念します。

エンディングは驚くことはなかったけれども、なるほどとは思った。

エデン、その後 1970年の映画

抽象的な表現が続く。


サディスティックな映像が好きな監督なのでしょう。

感性をどのように捉えるか。
それでなおかつシェークスピアが前提だとブログ主は自分の知識の乏しさと向き合うことになる。

チュニジアの美しい風景を映像にしたかったのだろうということはわかった。たぶん。

誰がために憲法はある 映画 ネタバレ注意

水永くんの物語というのが本当かもしれない。

朗読劇をベースにした映画。
原爆の被害者と演劇の女優さんの関係から朗読劇が出来上がってきたことが語られます。
原爆の悲惨さから、今の平和憲法の大切さ、大事さを伝えています。
つまり悲惨な経験を悲しみという感性から訴えている作品です。

ちなみにブログ主は感性ではなく、理論をベースにしたいタイプの人間です。
日本国憲法第9条をゲーム理論で説明できないかなあと思ったりするのです。

センターライン 映画 ネタバレ注意

ロボット工学三原則の提唱から約70年後の作品。

法廷劇を中心として展開します。

感想を3つ。

1、加害者
自動車の自動運転で事故を起こした場合の責任はどこにあるのか。
この作品では自動運転なのでAIに責任を求めています。
PL法でAIを作った立場の企業に責任があるとは言えないのかな。

2、AIの能力
自動運転が出来るAIならば、かなりの情報処理が可能なのではないかと思う。
少なくとも名前を間違えて覚えても修正ぐらいはできるのでは。
設定でわからなかったのは自動車のAIは地図情報の更新などを行うことから、スタンドアローンではないと予想するのですがどうだろうか。

3、人間側の反応
この作品ではAIに拒否反応を示す人たちが描かれています。
近い将来にもっとAIが普及したときに人々の反応はどうなるのか。
単純に便利であると肯定するのか。それとも人間の社会に対する侵略のように受け止めて否定するのか。

この作品は平成39年の出来事という設定です。
AIというより、人間の社会の側がどうするのかということかもしれません。